僕の懺悔

これは僕が今までを書く場所。バカなこと、失敗談、辛かったこと、様々なことを書く。何故かって?友達に自伝があったら買うって言われたからだ。

僕、サッカーやめます。その4

ジュニアに入って半年が過ぎたか、そのくらいのとき


県大会の後に新たな公式戦がはじまった。


もうすでにサッカーに誇りも楽しさも薄れ始めていた。


どんどん仲間は成長し、僕はしょうもない怪我をしてばっかでどんどん遅れている


今回の公式戦は、とある事情でコーチが普段の担当のコーチと変わり


たまに代行で見てくれるコーチが公式戦の担当になった


僕はそのコーチが結構苦手だった


なんか僕の心をのぞいているようで


嫌っているようでもあった


嫌っているとは書いたけれどある意味、からかっているという言葉のほうが近いかもしれない


そのコーチは僕に会うたびに「サッカー楽しい?」


って聞いてくる


僕は作り笑いをして楽しいですといつも返していた


子供のころの僕にとってサッカーは仕事のようなものであって夢中になってやれるようなものではなかった


サッカーが好きなやつなら休み時間でも放課後でもやっている


けど、僕は友達としょうもない遊びをしているほうが楽しかった


試合は2日にかけて行われた


特に試合の内容結果は覚えていないが、リーグ戦だったことは覚えている


僕らは途中負けてしまい得失点差で2点とらないと決勝戦に行けなくなった


僕は親に呼ばれ試合会場のはずれで怒られていた
(車のなかで怒るならまだいい、けど周りのみんなが自力で考えて頑張っているのに僕だけが親に横から何かいわれるのは本当に嫌だった)


そこに代理のコーチがやってきた。


なぜかは分からないが僕前にたっていた


僕の親は「コーチもなにか言ってください。」なんて言ってコーチの指示をまつ


僕はコーチから指導を受けて


話は終わった


そして決勝戦にいくか終るかの分け目の試合がはじまった


僕は順番でスタメンから外れて後半からの参戦だった


僕は沈んだ気持ちと自分が何とかしないとという気持ちの両方があった


試合はこちらが勝って進んでいった


けれど、まだ2点足りない


攻めてもなかなか点数が入らない


そんなとき僕がボールをもった


まだペナルティエリア、シュートのできる距離には来ていない、


けど、ゴールが見えた


僕は本能でシュートを撃ってしまった


それは一瞬の出来事だったはずなのに走馬灯のようにとても長い時間だった


ボールはゴールに入った


歓声が上がった、点が入らない空気を撃ち破ることができた


その勢いで僕は追加の得点をあげた


僕らは決勝戦の切符を手に入れたのであった


決勝戦の記憶はない


僕にはその記憶でいっぱいだった


優勝はした


他のチームが帰ってくなか僕らはトロフィーと一緒に写真を撮った


コーチは僕にトロフィーを持たせてくれた


僕は一生懸命に笑って見せた、もちろん嬉しかったけど




それからはあのコーチは僕に「サッカー楽しい」とは聞いてこなくなった




僕はそれがどんな理由であれ安心した




僕は懺悔する

僕、サッカーやめます。その3

小学生がJチーム加入していることをジュニアというが


ジュニアに入る少し前のこと、


主に2つのチームに所属していた。


1つ目のチームでは幼稚園年中からやっていたからもあってキャプテンをなっていた。


そんなチームでの最後の試合があった。


普段、僕はトップ下というポジションでやっていたが、


最後の試合は左サイドハーフをやることになった


これに対して当時どう思ったのかはっきり覚えていない。


ただ、なんかいい気分がしなかった。


たぶん、トップ下では使いづらいと思われたのではないかと思ったからだとと思う


けど、実際は僕が居なくなってからの編成を試すためにサイドに送ったのだと今は分かった


キャプテンとして最後の試合は思ったより酷かった、


チームが機能していなかったし、僕のポジションの左サイドはもうボールか来なかった


避けられていたかどうかは知らないが恐らく僕のポジション取りが悪くパスが出せなかったのだろう


当時はボールが回ってこないことに僕も吹っ切れてしまって、


途中から適当にプレーしていた。適当に攻めたり、適当にディフェンスをしたり


キャプテンとして最低だった。人としても最低だった


試合は負けて終わった


チームの拠点に戻ると悔しくて泣いてる友達がいた


僕は一粒の涙も出なかった


反省会がチームで始まって、各親がコーチとして話す、


僕の父親は僕にはじめから飛ばして怒った。


めちゃくちゃ怒った


「負けたのはお前のせいだ、それだったらサッカーなんてやるな」


僕はもちろん反省した、けど僕の心に先にきたのは


(みんなの前で怒んないで)という気持ちが強かった


僕の心は終わっていた、


反省会が終わってからは1人でいた。


仲間に顔を合わせることが出来なかった。


すると、僕をいつも信頼というか尊敬というかそのような気持ちで接してくれていた仲間がよってきて慰めて来てくれた


最後まで仲良くしてくれてどうもありがとう



チームや親コーチたちに懺悔





つづく



この最後の試合でこれからチームとしてともに活動していく仲間がいたことは思いにもよらなかった

僕、サッカーやめます。その2

四年生になって活動拠点が変わった。


新たな仲間とコーチ、Jの下部組織となると生活面でも


気を張らなくてはならない


はじめは楽しくやっていけれど、ところどころ窮屈だった


コーチも少年団のときの親のような兄のような友達のような感覚ではなく


うまくなるための指導、礼儀を学びこれからプロになるための素行を少しずつ染み込ませる


実は最初メンバーと顔合わせした時、


やっぱりこいつは受かってたかとか


え!こいつも受かってたのとかもあった


でもそんなことも言えなくなってくることを僕は知らなかった


気づかない間に周りの仲間にどんどん抜かされていった


いつしか僕はサッカーに自信がなくなってしまった


今なら分かる。


彼らは考える力があって、僕にはなかった。


体格もあってテクニックも毎日の朝練から父に染み込まされていた僕は考える必要がなく


上手くいってしまっていたのだろう


彼らは僕の癖や心身の成長、どうやったら勝てるのかを日々考え練習していたのだと今なら死ぬほど分かる


何も考えないでただ日々が過ぎていったのは僕だけだった


例えるなら、じゃんけんで皆は勝つために何を出すか考えて決めるが、


僕はグーでごり押してきたってことになると思う


石でも大きければ紙に勝てるのは紙が小さいときだけ。




本当に後悔してもしきれない、まして過去に戻ったとしても次こそ上手くいくという保証もない


これはどんなことにも言えるんだと思う。


そんな僕は始めにオフェンスで出場していたけれど、


途中からはサイドバックに置かれた
(ミスしても仲間がカバーに入りやすく攻めも決定的なところでプレーしなくてすむのでコーチとしては安心。当初はチームの人数が少なかったかろうじて試合には出ていた)


気持ちが消極的になってきた頃、冬に県大会が始まった


ポジションは左サイドバック、サッカーをやっていると


ウィングとも言われる。


試合は順調に進んだ


勝ち進むに連れて点数差は縮まって


なんなく決勝まできた


決勝は相手も簡単には勝たせてくれない。


互いに点数が入らずずるずると時間が過ぎていく


当時の僕の気持ちは今でも覚えている。


(どうか僕のミスで失点しないように、僕のところから点数が入りませんようにそんな考えしかなかったグズだった)


延長戦になっても勝敗はつかず


試合は引き分け


PK戦にはっいた


なんとか失点を阻止した僕は勝つことに必死になっていた


PKには自信があった、根拠はない


勝敗はサドンデスに委ねられ


相手が外し、あと僕らのチームが決めれば優勝


そんなときに僕の番がきた


緊張も不安も一切なかった


心で『決める、決める』となんども繰り返した


ゴールエリアに近づいているときに観客から声が聞こえた


『Jは絶対決めるよ』


それは応援について来ていたひとつ上の先輩だった


僕も決める自信しかなかった


審判の笛がなる




幼い頃、父親にPKの極意を聞いた。


(あらかじめコースは決めておけ、毎回同じ場所を狙え)


僕は言われた通りに左上のコースを決めていた


あえてうつコースは見ない


そして、シュートをうった




結果は…




入った…


優勝の瞬間だった


僕はすぐに仲間のもとに走った


みんなで抱き締め会い、僕も嬉しかった





その瞬間の写真が今でも実家の和室に飾ってある





続く…





~後日談~


その後、家に帰るまでの車では父親は僕に


Jの下部組織だからPKまで引っ張ってしまったのは


Jチームの顔に泥を塗ったようなものだ


と怒られた


けど、最後に優勝できて良かったと褒め言葉を貰った





数日間チームには和やかな雰囲気が漂った