僕、サッカーやめます。その2
四年生になって活動拠点が変わった。
新たな仲間とコーチ、Jの下部組織となると生活面でも
気を張らなくてはならない
はじめは楽しくやっていけれど、ところどころ窮屈だった
コーチも少年団のときの親のような兄のような友達のような感覚ではなく
うまくなるための指導、礼儀を学びこれからプロになるための素行を少しずつ染み込ませる
実は最初メンバーと顔合わせした時、
やっぱりこいつは受かってたかとか
え!こいつも受かってたのとかもあった
でもそんなことも言えなくなってくることを僕は知らなかった
気づかない間に周りの仲間にどんどん抜かされていった
いつしか僕はサッカーに自信がなくなってしまった
今なら分かる。
彼らは考える力があって、僕にはなかった。
体格もあってテクニックも毎日の朝練から父に染み込まされていた僕は考える必要がなく
上手くいってしまっていたのだろう
彼らは僕の癖や心身の成長、どうやったら勝てるのかを日々考え練習していたのだと今なら死ぬほど分かる
何も考えないでただ日々が過ぎていったのは僕だけだった
例えるなら、じゃんけんで皆は勝つために何を出すか考えて決めるが、
僕はグーでごり押してきたってことになると思う
石でも大きければ紙に勝てるのは紙が小さいときだけ。
本当に後悔してもしきれない、まして過去に戻ったとしても次こそ上手くいくという保証もない
これはどんなことにも言えるんだと思う。
そんな僕は始めにオフェンスで出場していたけれど、
途中からはサイドバックに置かれた
(ミスしても仲間がカバーに入りやすく攻めも決定的なところでプレーしなくてすむのでコーチとしては安心。当初はチームの人数が少なかったかろうじて試合には出ていた)
気持ちが消極的になってきた頃、冬に県大会が始まった
ポジションは左サイドバック、サッカーをやっていると
ウィングとも言われる。
試合は順調に進んだ
勝ち進むに連れて点数差は縮まって
なんなく決勝まできた
決勝は相手も簡単には勝たせてくれない。
互いに点数が入らずずるずると時間が過ぎていく
当時の僕の気持ちは今でも覚えている。
(どうか僕のミスで失点しないように、僕のところから点数が入りませんようにそんな考えしかなかったグズだった)
延長戦になっても勝敗はつかず
試合は引き分け
PK戦にはっいた
なんとか失点を阻止した僕は勝つことに必死になっていた
PKには自信があった、根拠はない
勝敗はサドンデスに委ねられ
相手が外し、あと僕らのチームが決めれば優勝
そんなときに僕の番がきた
緊張も不安も一切なかった
心で『決める、決める』となんども繰り返した
ゴールエリアに近づいているときに観客から声が聞こえた
『Jは絶対決めるよ』
それは応援について来ていたひとつ上の先輩だった
僕も決める自信しかなかった
審判の笛がなる
幼い頃、父親にPKの極意を聞いた。
(あらかじめコースは決めておけ、毎回同じ場所を狙え)
僕は言われた通りに左上のコースを決めていた
あえてうつコースは見ない
そして、シュートをうった
結果は…
入った…
優勝の瞬間だった
僕はすぐに仲間のもとに走った
みんなで抱き締め会い、僕も嬉しかった
その瞬間の写真が今でも実家の和室に飾ってある
続く…
~後日談~
その後、家に帰るまでの車では父親は僕に
Jの下部組織だからPKまで引っ張ってしまったのは
Jチームの顔に泥を塗ったようなものだ
と怒られた
けど、最後に優勝できて良かったと褒め言葉を貰った
数日間チームには和やかな雰囲気が漂った
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。